「あなたはまさに一個の巨大な原子−−無限の可能性を秘めながら、今は限りある形態で自我を表現している、原子のような存在です。身体の内部に、いつの日か全ての束縛を押し破り、真実のあなたにとってより相応(フサワ)しい身体を通して表現せずにはいられない力を宿しておられるのです。そうなることをあなた方は〃死〃と呼び、そうなった人のことを悼み悲しんで涙を流されます。それは、相も変わらず肉体がその人であるという考えが存在し、死が愛する人を奪い去ったと思い込んでいる証拠です。」 『古代霊シルバーバーチ 不滅の真理』近藤千雄訳・ハート出版刊(P.50) |
人間は皆、大霊と同じ神性を宿しています。程度の差があるだけで、本質的には“神”と同じ存在です。 “死”とは、本来“神”である人間が、その本来の姿に近づく過程であると言えます。肉体から幽体へ。幽体から霊体へ。霊体から神体へと順番に、その本来持ちうる霊性に相応しい身体へと、新たな道具として乗り換える瞬間が死なのです。そうして、より精妙な身体に乗り換えることで、また、自分本来の霊性を、より十全に発揮できるようになります。
で、またまた僕の趣味に走ったたとえ話で恐縮ですが……これはまるで、スキーヤーとスキー板の関係のようですね。 たとえエキスパートスキーヤーでも、初心者用の板では実力が発揮できませんし、逆に初心者には、上級者用の2m超の板は使えないでしょう。それぞれの能力に合わせた板に乗っているからこそ実力が発揮できるわけです。新しい板に替えるのを悲しむ人がいないのと同様、“死”によって身体を乗り換えるのを恐れ、悲しむのも、考えてみればおかしな話です。(もちろん、親しい人たちと会えなくなるのは悲しいですが……)
ところで、もうすぐスキーシーズンですね〜。恒例の「SKI NOW」の放映も始まってます(これを書いた96年11月当時の話です)し、スキー場情報や、去年の自分の滑りのビデオを検討しながら、毎日うずうずしてます(^^;。今年こそは一級を……おっと、こういう雑談は、また機会を改めて(^^;ゞ。 初出:Nifty-Serve FARION『心霊学研究所』(11/18/96) |