心霊学研究所
『欧米心霊旅行記』浅野和三郎著
('02.02.07登録)
第十信 欧州大陸の一角(4)
スイスの風光
スイス行きの汽車の中では、生まれて十六ヶ月になるという赤ん坊を連れた若い夫婦と同室に乗り合わせましたので、いろいろ語り合って退屈しませんでした。何でもその人は、すでに八年も前から平和会議の事務員をやっているとの事で、日本の外交官たちや、斉藤提督のことなどもよく憶えていました。 「ジュネーブ生活は面白いでしょうネ?」 「格別面白いわけでもありませんが、空気がとても新鮮で、景色がよくて、それにある意味では、すべてが世界的なものですから、慣れてみると捨てがたい気がします。今回休みをいただいてロンドンへ帰ってみましたが、イヤその空気が濁っているのと、いやにだだっ広いのとで、少々あっけにとられました」 イギリスにも、あわただしい大都会の生活に閉口している向きが相当多いようです。そうかと言って田舎に引っ込んだのでは飯が食えないので、そんな人たちがしかるべき目標をつけて、外国などへ出かけるものと見えます。日本にも、次第にこの傾向が多くなることでしょう。 乗っている汽車は急行だったので、そうしている間にも、東南に向かって走る走る! 平野を横切る、森林もくぐる。田舎町をかすめる。景色は、美しくはあるがやや整然とし過ぎたイギリスと異なり、どこかのびのびしていて、そしてどこか農村の雰囲気が濃厚なので、親しみが強いように感じます。パリから37マイル(約60km)のフォンテンブローなどというところは、元王城の地で、シェークスピアの最後とも深い関係のある、フランスでは人気の高い土地のようですが、汽車で素通りの身には、ただその辺りの森林が、非常に見事だと感じられるぐらいのもので、詳しいことはさっぱりわかりません。とうとう汽車の中で日を暮らし、午後の九時二十分に、スイスのジュネーブに着きました。夜目にはさだかにわかりませんが、雲間をもれる月の光に、岸をかんで流れるローヌ河や、水をたたえるレマン湖面のキラキラ光るのが見えました。 相変わらず、ここでもクック社の案内人に、自動車で湖岸の『ラング・ホテル』というホテルに送り込まれ、その夜は入浴してぐっすり寝てしまいました。 翌二十六日、窓を開けてみると、ビショビショと雨が降っているのには失望しました。十時頃に雨が小降りになるのを見計らって、レマン湖岸をぶらつきましたが、その散歩道のいかにも整備されていることや、ホテル、食堂、その他いろいろな建物がいかにも洗練されていることや、山水のたたずまいのいかにも整っていることや、なるほど世界各国の人間をここへ引き寄せるはずだとうなづかれました。天気が良ければ、近くの連山をはじめモン・ブランなども真正面に眺められるのだと聞きましたが、惜しいことには、その日はやっと500mか1km位の眺望しかきかず、雲や霧の裏に見え隠れするぼんやりした山河や楼閣を、恨めしげに眺めやるぐらいのものでした。 午後に雨を冒して再び外出し、小ぢんまりとよく整っている対岸の市街をぶらついたり、世界平和会議の日本事務所を訪ね、留守番の若い事務官と雑談をしたり、絵画の展覧会に入って新旧の作品を眺めたり、とにかく日を暮らしてしまいました。要するに、ジュネーブでは雨に降り込められて、十分に要領を得られなかったということでした。ことに何より残念に思ったのは、一九三〇年にここで開かれるはずの世界スピリチュアリズム大会の委員が、一人も町にいなかったことでした。 翌二十七日の午後には、早くもジュネーブを出発してルーサアンに向かいましたが、天気は半ばは晴れて、昨日よりはよほど展望がききました。いたるところ高い山、五色に色づいた森、なめたように青々としている牧場、ひさしの張り出した農家、黄白とりどりの秋草、身にしみる清涼な空気、灰色の太った牛----スイスならではの風物が、矢継ぎ早に車窓に迫るのでした。チョコンと、とんでもなく高い山の中腹に人家の建っているところは、日本の木曽路、丹波路、さては吉野の奥などに、いくぶん似た趣がないでもありませんでした。 ベルンで乗りかえて、ルーサアンに着いたのは午後の四時半頃。またまたクック社の案内人に連れられて、『ホテル・デ・バランス』に入りました。湖水の水が絞られ、一条の急流となって流れ落ちる地点に市街を構えたところは、まったくジュネーブと同じようですが、ただこちらの方が、またいっそう景色がよく、いわゆる山紫水明《さんしすいめい》の地という感が私の胸に迫りました。おまけに人工的設備がまた至れり尽くせりで、夏は避暑、冬はスキー、スケート、水にも陸にも、すべてがお客様本位に、申し分なく出来ているように見受けられました。 「世界の寄り合い所としては、どうしても当分スイスの独壇場になりそうだ。スピリチュアリズムの問題だって、世界的な会議でもやるには、そのうちこの辺でということになるかも知れないな」 私はそう考えざるを得ませんでした。 翌二十八日、朝から小雨が降っていたのが、やがて間もなくカラリと晴れ上がって、日本晴れの上天気。スイスへ入って、今日初めてここ数日の不満が晴れました。十時四十三分発の遊覧汽船に乗って、湖水の終端のフルユーエルンまで、ざっと四時間近くも湖上の風光をほしいままにしましたが、それはちょっと粗末な筆では、ここには描き出せません。1500m、2000m位の高山の頂は、いずれもきらめく白雪に包まれ、より低いところは黄に、紅に、緑に、蒼黒に、さながら錦《にしき》のように美しく、ずっと降りて山腹の毛織物を敷いたような牧場には、豆のような牛の群れが草を食《は》み、湖のほとりのやや平坦なところには、石を積み重ねて贅《ぜい》をつくした別荘やら、ホテルやらが、木陰に巣を構えていると言った按配《あんばい》。そして水も、空気も、眼が痛いほど冴え切っているのです。おまけに自分たちの乗っている船が、なかなかの贅沢物で、重量は三四百トン位のものでしょうが、思い切って客室と甲板との設備を完全にし、一流ホテルに負けないご馳走を提供して、眼ばかりか、口や腹の欲までも満足させようというのですから、客引きの術にかけては素晴らしく先進的で、箱根や中禅寺が、近頃ずいぶんそのノウハウを学んできたと言っても、まだまだよほどの距離がありそうです。スイスの風光について、しいて難癖をつければ、どこへ行っても素晴らしく美しい代わりに、どこの景色も大概似たり寄ったりで、日本のような千変万化の面白みに欠けることでしょう。 この日、フルユーエルンからの帰りも汽船にする予定でしたが、うっかり湖岸でぶらぶら遊んでいるうちに、汽船から置いてきぼりを食らい、やむなく汽車でルーサアンのホテルに戻りましたが、おかげでウエルツエル湖だのツーゲル湖だのを、車窓から眺めることができて、かえって拾い物をしました。 その夜はホテルの喫煙室で、女中を連れてこの宿に滞在中の一人の英国婦人と、長いこと話し込みました。いろいろイギリス文学の話とか、日本に関する雑話だのがはずみましたが、彼女のホテル住まいについての愚痴は、笑い話のようでもあり、また気の毒でもありました。 「私の夫が、こちらのほうに来ておりますので、私たちはロンドンの家を引き払い、こうしてホテル住まいを致しておりますが、スイスの山水は、最初は良いと思いましたものの、やがて日を重ねるにつれて、すっかり飽き飽きして……。まるで高い山に頭をおさえられるような気がして、こんな苦しいことはございません。やはり、人間は家庭がないと張り合いがなさすぎます。私はすっかりホームシックにかかってしまいました。ことに私には、帰りたくても帰る家が無いのですから、なおさらいけないのです」 育児の面倒や、家事のわずらわしさの無いことが、現代女性の理想かも知れませんが、ときどきこんな実例に遭遇してみると、やはりこの理想も、実現せぬうちが華なのかもしれません。 翌二十九日は、早くも今回の小旅行の帰り道。少し無理がありますが、今日中にドイツを通って、オランダまで出て、夜行でイギリスに渡るつもりなので、午前七時二十五分にルーサアンを出て、バアルでドイツの最新式の汽車に乗り換え、それから一気にドイツの西南部を横断しましたが、「所変われば品変わる」ドイツはすっかりドイツらしい、田舎くさい気分がみなぎっていました。まず通過したのはフライブルク、オッフェンブルク、バーデン・バーデン、マンハイムなどという地方で、田畑は実によく耕され、男も女も真っ黒くなって働く様子は、かなり日本的な感じがしました。それからさらに北に上って、長いことライン川の左岸を走りましたが、その辺りの山頂には、いたるところにニョキニョキと中世時代の古城の跡が、空にせまってそびえ立ち、昔読んだリットン卿の『ライン物語』などが、なんとなく思い出されるのでした。 とうとう日暮れすぎには、ドイツの国境を越えてオランダに入り、フック・オブ・ホルランドの港に着いたのは、ちょうど午後十時半でした。汽車から降りてそのまま連絡船に乗り、自分に与えられたキャビンに入るや、すぐに寝間着に着替えて、疲れた身体をベッドに横たえました。外は北風が相当強くふいていて、ザブリザブリと船の側面を打つ波の音が高く聞こえましたが、私は良い気持ちで、かまわず寝込んでしまいました。 翌朝未明に眼を覚ませば、船はすでにイギリスのハールウイッチに着いていました。顔も洗わず、まっすぐロンドン行きの直通汽車に乗ったのは、午後六時半頃だったでしょうか。夜のとばりはまだすっかり払い去られず、野に、海に、朝霧が白々と垂れ込めていました。(三・十一・五) |