心霊学研究所
『欧米心霊旅行記』浅野和三郎著
('02.02.21登録)
第十一信 ボストンにおける心霊実験(1)
大急ぎでボストン市へ
ボストンの霊媒マージャリィの名声は、最近ようやく世界的に響き渡り、すでに『マージャリィ』というタイトルで分厚い書物も出版され、各国の心霊雑誌はもとより、各方面の学術雑誌までも、それに関する記事を載せるようになって来たことは、この道の研究者にはよく知られたことです。霊能を発揮してからたった五年あまりの短い期間で、彼女がここまでの地位を築き上げたということは、まったく他に例のないことであり、いかに彼女がすぐれた能力の持ち主であるのか推して知るべきでしょう。他にも世界には名霊媒がたくさん現れていますが、その中でひときわ引き立って頭角を現わし、誰が見てもトップスターと銘打つのに躊躇せずにすむのは、このマージャリィでしょう。 マージャリィと言うのは、もちろん本名ではありません。彼女は、実はボストンの有名な外科医、クランドン博士の夫人で、社会的にも大変に立派な地位の人です。従って金銭で霊術を売る職業的霊媒でないどころか、どんどん自費を注ぎ込んで実験室を造ったり、実験機械を製作したり、訪れた研究者たちを歓待したり、また学術研究のために必要とあらば、費用は自分持ちで、イギリスやフランスまでも出かけて行って実験に応じたりします。ですから私も、ロンドン滞在中に早くからこのマージャリィに目をつけ、米国を訪れた際の最大のお土産は、この霊媒を実験する事であらねばならぬと感じたのでした。幸い私がロンドンで知り合った人たちの中には、それに関していろいろと都合を付けてくれる方がたくさんいましたが、中でも心霊大学のマッケンジー夫人が、私のために何もかも世話をしてくれ、すでに私の英国出発前に、ニューヨークのスピリチュアリスト、キアノン夫人、また本人のクランドン博士などから私に宛て、実験承諾の通知が届きました。それによると、私のニューヨーク着が十一月十六日の予定であるから、十七日、十八日の両日に、ボストンにおいて、実験の準備を整えて待っているとのことでした。 「ニューヨーク〜ボストン間の250マイル(約400km)もの距離をまったく意に介さず、さっさと仕事を片づけて行こうとするところは、さすがに米国人らしさを発揮しているナ」と、私は少なからず感心したことでした。日本人やイギリス人なら、こんな時は多少の遠慮があります。「3,000マイル(約4,800km)の大西洋を渡って未知の大陸に来る日本人だ。実験前にまぁ一服させてやれ……」たいていそう考えそうです。ところが徹底的にせっかちで、そして徹底的にビジネスライクに出来上っているヤンキー気質《かたぎ》は、まったく違います。「やれるだけドンドンやって、それから一服することだ。仕事をするのに一分間だって無駄は禁物だ」何もかも皆そういった調子です。 さて私は予定の通り十一月の十日に英国を出発しましたが、途中十三、四日頃に、かなり強い逆風にじゃまされて、世界の船舶に雄大さをもって知られるさすがのベレンガリア号も通常のスピードが出せず、一日だけ遅れて十七日の早朝にニューヨークに到着する、と事務室の掲示板に張り出されました。 「こいつは弱った」と、私はこぼしました。「十六日に着いてさえ、そうとう忙しいのに、十七日に着いたのでは、うまくその日の実験に出られるだろうか」 ところが、いよいよ十一月の十七日午前十時頃、税関その他の手続きをすませて、ニューヨークの大桟橋に上がってみると、さすがは米国のスピリチュアリストに抜かりはありませんでした。キアノン夫人からは、一人の使いが桟橋に送られており、またクランドン博士からは、船の来着を待って電報が送られていました。それによると、実験は今夜の午後八時に開始するから、さっそく午後一時の急行でボストンに向かわれたい。準備の都合があるから、着港次第電報か電話で返事をして欲しいというのでした。 極東のお上りさん、いくらかとまどい気味ではありましたが、どうにかキアノン夫人には電話で、クランドン博士には電信で、委細承諾の旨を伝えました。それから大急ぎで荷物を第八十六街のホテルに届け、タバコ一服吸う間もなく、ボストン行きの停車場へとかけつけました。ロンドンと比べても、また一段も二段もせわしく騒がしいことこの上ないニューヨークの街頭での素早い行動! これが恐らく、私の今回の世界旅行の中でも、いちばん大変な仕事だったかも知れません。 ボストンに着いたのは午後六時過ぎ、街はモウすっかり夜の燈で彩られていました。今夜の宿のことは、もしかしたら先方で、その世話までしてくれるのではないかと思いましたが、会ったことも無いのに、いささかぶしつけな感じもしましたので、とにかくタクシーを呼んで、ボストンで一流のリッツというホテルに入り、さっそく電話で今到着したとクランドン博士に伝えました。電話口には博士自身が出ました。 「アサノさんですか。お待ちしていました。今どこから電話をかけて居られます? 停車場からですか?」 「いいえ、リッツ・ホテルからです」 「それはいけませんネ。こちらの意志があなたに通らなかったのは残念でした。私の家では準備をして、あなたをお待ちしております。ホテルのほうを断って、すぐにこちらへお出で下さい」 「でも、それでは余りに……」 「イヤご遠慮には及びません。ぜひそうしていただきます」 せっかくの心づかいを無下に断わるのも、かえって無礼と思いましたので、私は再びタクシーを呼んで、ライム街十番地のクランドン邱へと向かいました。 「寝るのも起きるのも、すべてあなたの好きなようにしていただきますヨ」と、気さくで快活な夫人は、私を案内しながら、「風呂場と化粧室はここにあります。食堂はこちらです。寝室は地下にあります。食べたいものがあったら、何でも勝手に出して下さいませ。宅にはご飯もあります。日本のお醤油もあります」 すべてがこんな調子です。ここで私が非常に意外に感じたことは、クランドン家で働いている二人の召使いが、どちらも日本人だったことで、一人は四十歳位、もう一人は三十歳位の、どちらも苦学生あがりでした。 私が初めて接触したアメリカ紳士の家庭生活、書きたいことはたくさんありますが、それは今の執筆の目的と余りにかけ離れますので、そういう話は別の機会に譲り、さっそく本題の記述に取り掛かることにしましょう。 |