心霊学研究所
『欧米心霊旅行記』浅野和三郎著
('03.03.23登録)

第十二信 アメリカ横断
ボストン雑事


 

 ボストンにおける二晩続きの心霊実験の概況は、すでにだいたい報告ずみになっていますので、ここには実験以外の雑感や、雑話を少しばかり書くことにします。

 十七日の午前十一時、私はニューヨークの大桟橋から、第八十六番街の日本宿屋へタクシーで走りましたが、その運転手がまるでススで染めたような真っ黒な黒人であったのは、以前から聞いていたことではあるものの、ちょっとびっくりしました。少しずつ聞いてみると、ニューヨーク市内だけでも黒人の数は七八十万人にのぼるそうで、したがって自動車の運転手、汽車や電車の車掌、赤帽などはほとんど全部この人たちで受け持っているのでした。同時に下男とか下女とか、家庭の雑役に服するものも大半が黒人で、初めてアメリカへ来た外国人の眼には、かなり異様に感じられます。しばらくするとだんだん慣れてきて、真っ黒な手でお給仕をされてもさして何とも感じなくなりますが、最初は何やら薄汚く思われるのでした。

 さて第八十六番街の宿屋から、私はさっそくまた別のタクシーでボストン行きの中央停車場に走りましたが、その時の運転手も同じく黒人でした。それから黒人の赤帽に荷物を持たせて汽車にのり、汽車の中でもまたあいかわらず黒人のボーイの世話で座席をとり、黒人の給仕にサーブされて昼食を食べました。どこへ行ってもたいてい黒人がついてまわります。それにしても、アメリカ政府が市民権を彼らに与え、大いにうれしがらせておきながら雑役に服させることは、なかなか油断ならない巧妙なやり口だと思われました。日本人もこの点で、大いに学ぶところがありはしないでしょうか。

 ニューヨークからボストンまでの汽車は、たいてい海岸に沿って走るのですが、沿道の景色は格別良くもなくまた悪くもなく、ところどころに森あり、野あり、また町村あり、すべてがいかにも大まかな、やりっ放しという風があって、小ぢんまりと整頓したイギリスから来た眼には、「やはりここは新大陸だナ」という感を与えました。家屋なども木造のバラック風が多いのでした。

 汽車の内部では、私はボストンで泊まるべき今夜の宿について少々心配していました。なにしろこれがアメリカにおける第一日なのですから、勝手がさっぱりわかりません。そこでキョロキョロ車内を見まわしますと、すぐ私の前のイスに、四十前後のすてきにきれいで上品な婦人が座っています。こんな上品な様子の人なら、きっと親切に違いないと見当をつけて、私はおもむろに言葉をかけました。

「失礼ですが、ボストンの宿屋のことについて少々伺いたいのですが……」

 思ったとおり、その婦人は東部地方のアメリカ上流婦人の典型ともいうべき、はなはだのみこみのよい、そして親切な人でした。にっこり愛敬をたたえて

「おやすいことでございます。私はボストンに住んでいるものでございますが、私の存じていることなら、なんなりとお教えいたします」

 そう言って、いろいろボストンの宿屋の種類や性質を話し、結局アーリングトン街のリッツ・ホテルというのが、一番よかろうということになりました。それをきっかけに、私たちの間には引き続いて雑談が交えられました。

「あなた、この地方は初めてでございますの?」

「初めても初めて、実は今朝ベレンガリア号でニューヨークへ着いたばかりです。何もかもさっぱりわかりません」

「そうでございましょうね。私たちもニューヨークへ参りますと、あまりの雑踏《ざっとう》でまごついてしまいますからね。----ボストンへはどちらへ御用で?」

「実は」と、私はいささかちゅうちょしましたが、別に悪事を働きに行くのではないので、思い切って「実は心霊実験のために、クランドン博士を訪問しますので……」

「まァ、クランドン博士でございますか? それはたいへん結構なことでございます」

「クランドン博士をご存じですか?」

「いいえ、別に深くは存じませんが、ボストンあたりであの方のお名前を知らないものはございません。それに、クランドン夫人は、世界中でも指折りの霊媒だということではございませんか。ボストンにあんな立派な方々がいらっしゃるのは、ほんとうにボストンの名誉ですわ」

 心霊問題にかけてはまるっきり門外漢らしい人の口から、こうした評判をきくのは、私にとって非常に愉快なことで、「こりゃあ、アメリカ人はなかなか話せるナ」と感じたことでした。

 いよいよボストンに着いた時に、その婦人はわざわざ私のためにタクシーを呼んで、リッツ・ホテルへと送らせてくれました。何という姓名の人かは、今後永久にわかりますまいが、今でも私の眼には、その婦人の美しい姿がチラチラしています。

 いったんリッツ・ホテルに入った私が、クランドン博士の言葉に従ってそれを取り消し、そのまま同博士邱の客となった次第は、すでに前に申しあげたとおりです。夫妻とも実に気の置けない、あっさりした人たちで、おかげで私は、アメリカ気質《かたぎ》の生っ粋《きっすい》に触れたような気がしました。下らないお世辞もなければ、ありがた迷惑なおせっかいもないが、それでいて痒いところに手の届く親切さがこもっているのです。

 十七日の晩に実験がすみ、立会人たちがぞろぞろ帰った後で、私たち三人は安楽椅子にもたれながら、ややしばらく雑談にふけりました。

「アサノさん、私たちはぜひ一度日本へ行ってみたいのですが」と、クランドン夫人が雑話の途中に言い出しました。「それには季節は、やはりサクラの花の咲く春がよいでしょうね」

 同家では二人の日本の苦学生あがりを使っているので、相当日本の事情には通じているのです。

「そうですね」と、私はちょっと考えながら「春も結構ですが、ともすると雨でサクラがすぐ台無しになります。春よりはむしろ秋の方がいいでしょう。十月頃の日本の空気は実によく澄んで、どの山もきれいに紅葉しています。箱根でも、日光でも、そりゃあ美しいところです。公平に観て、景色の点においては、決してスイスに劣らないように思います」

「そんなことを聞かされると、私は今年にも日本へ行ってみたくてたまりませんわ。ね、あなた、アサノさんと一緒に出かけましょうか」

「今年というわけにはいかないがネ」と、博士は微笑して、「だいいちこれから出かけたのでは、気候が悪くて仕方があるまい。いずれ機会をみて、ゆっくり出かけることにしましょう。その時はアサノさんに、方々を案内してもらいましょう」

「案内はもちろんですが、しかしただの見物だけではすみませんよ。私どもの方にも、奥さんに注文がありますヨ」

「そりゃあ覚悟していますわ。景色の見物はむしろ付録で、どこへ行っても、私の身体は心霊実験と切り離すわけにはまいりません。神聖な学問研究のためですもの、私の力の及ぶかぎりは何でもいたしますわ」

 夫人は無邪気に快活な資質《たち》ですが、こんなことをいう時は、キリッとした固い決心の色が、その美しい顔にみなぎります。

「それはそうと、アサノさんもボストンへお出でになられた以上、少しは付近の見物もしておかれる方が良いでしょうね。それには」と、夫人も博士のほうを向いて、「明日あなたが患者まわりをなさる時、アサノさんをご一緒に自動車に乗せてあげてはどう?」

「そいつは良い考えだ。私が診察をしている間に、アサノさんは自動車の中で書物でも読むか、それとも付近をぶらつくか、天気さえ良ければ結構退屈はしないでしょう。明日は少なくとも五六十マイル(約80〜100kmほど)駆け回らなければなりませんが、どうです、アサノさん、そうなさいませんか?」

「何より結構です。ぜひお供しましょう」

 こんな相談ができた結果、翌十八日の午前九時頃から午後二時頃まで、私はこの多忙なお医者さんと同乗して、ボストン市の内外をグルグル往診……いや回覧しました。博士は自らハンドルをとりながら、案内者然としてしきりに説明するのでしたが、おそらくこんな立派な案内人を連れてボストン見物をおこなったものは、そうたくさんはないでしょう。市内で立ち寄ったのは二三の病院と、二三の私宅、それからずっと市外二三十マイル(約30〜40km)の距離まで遠乗りして、数人の患者を見舞い、その途中、わざわざハーバード大学の所在地を通り抜けて、懇切な説明をしてくれたりしました。博士の診察中、私はたいてい車外に出て、付近の店頭をひやかしたり、景色や庭園をのぞいたり、タバコをふかしたり、ちっとも退屈どころか、かえって診察時間の短すぎるのを感じるぐらいでした。おかげで短時間の滞在にもかかわらず、私はボストン市とはどんなところか、大ざっぱな観念だけは持つことができ、同博士ともいっそう打ち解けて、突っ込んだ話をするようになりました。

 午後の三時ごろには、多少心霊問題に興味を持ちかけた一人のキリスト教牧師の訪問を受け、そこへ今回の実験のためにボストンに滞在中のキャノン判事夫妻、また霊媒のヴァリアンタインなどが来あわせ、議論に花が咲きました。その牧師が、神だの、キリストだのについて、従来のドグマティックな観念にとらわれているので、私が古神道的な観念を説いて、その迷妄を指摘すべく努めると、キャノン夫人などは手をたたいて「その通りその通り!」と、ムキになって応援したりしました。こんな場合にズンズン所見を発表し、相手の感情などに何の遠慮も、融通もしないのがアメリカ人のやり方らしく、この方が、陰に回ってありもしない中傷をしたりする、卑劣千万なやり方よりか、どれだけ男らしいかしれないと痛感されました。ちなみにこのキャノン夫人というのは、ニューヨークで誰知らぬ者もないぐらいの熱心なスピリチュアリストで、以前から『ニューヨーク神霊本部』を率い、そのあり余る巨万の富をこの道の振興になげうちつつあるのでした。その良人のキャノン判事も、以前サンフランシスコの裁判所長などを勤めた温厚で誠実な老紳士で、これまたこの道のために熱心に奔走《ほんそう》しつつあります。私がアメリカ横断に際し、短時間に予想外の収穫をあげられたのは、主としてこれらの情熱家たちのたまものでありました。

 十八日の晩餐は主客十五六人の大一座で、今日はケンブリッジの霊媒リッツェルマン夫人なども来会し、いろいろ面白い話がはずみましたが、なかでも私がびっくりしたのは、来会の貴婦人の二三人が、例の物品引き寄せによって、霊界の居住者から種々の品物をもらいうけていることでした。例えばリッツェルマン夫人のほっそりした指を飾る直径六七分(約2cm)のエメラルドだの、私の左側に座を占めた某老婦人の腕に、ちょうど腕時計のように金の鎖でとめてある古代ローマの銅貨だのが、いずれもそうした霊界からもらった品物なのでした。こんな現象は、格別アメリカでは珍しいことではないらしく、案外彼らは平気な顔で、それをもらった際の実況を物語るのでした。総じて欧米の心霊現象の特長はあまりもったいぶらないことで、その点が学問研究の要求に向いている点かと思われます。お札一枚、餅片一つにも勿体がって「これは何々の命から下し賜はる御品である」と言われるのでは、人間は三拝九拝して、黙って引き下がるよりほかに道がありません。

 翌十九日には、二晩続きの実験も無事にすんだので、私はすっかりくつろいでしまい、午前中はクランドン夫人と、書斎でよもやまの雑話にふけり、午後の一時には早くもクランドン博士と連れ立って、ボストンを辞してニューヨークに向かいました。

 博士は今後、ニューヨークでキャノン夫人主催の心霊講演会に出演することになっているので、私もそれに臨席することにしたのでした。(四、二、三)

 


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